La Palme :『2046』

cannes2004wkw

France 3 より〈Depuis Cannes:Jacky Bornet Publie le 21/05 a 11:12〉
勝利 :『2046』
5月12日以来の一連のできごとは2046にパルムドールが与えられるということを示している。その迷宮の中では、フィルムのタイトルがその年そのものを現すのかそれともホテルの部屋の番号を示しているのかわからず、全ては鏡の世界の中にある。観客はその映画作家が前作以来洗練されたことがわかっている。コッポラやポランスキーに続く存在である。(略)うっとりするほどに崇高なフィルムに高められた「2046」。この映画は催眠術的でノスタルジックでしかも覚醒している。「2046」は映像詩である。この映画にあるのは、クリス・マルケルの「ラ・ジュテ」やアラン・レネの「去年マリエンバードで」の中に根付いているのと同じ儚さである。この映画の儚さは、アラン・レネの「ジュテーム、ジュテーム」「ヒロシマ・モナムール」以上である。フランス映画の過去60年において、日本の鈴木清順の作品などは、現代に作られた「2046」の一部のように思えてくる。作品内の経験の多様性の中に、鈴木とwkwの相似性、例えば意義のある未来への志向性や粘り強さや誠実さを見てとる事ができる。愛の放蕩を尽くすトニー・レオンは複数だがただ一人の女を求めているのである。この映画の全編に亘って映っているのは、”その女”にほかならない。愛しているという言葉そのものの中で、主人公は、愛によって隔てられた時間の境目で金縛りにあっている。「ラ・ジュテ」も、タルコフスキーの「ソラリス」も語ることのなかった主題を、wkwは完璧な形で再現する。なんというイメージ、なんというストーリーとリズムと音響、そしてなんという美と調和。まるでスクリーンに映し出された2001年の愛のようだ。
カサンドラ(破滅を予言した王女)が審美的な叫び声をあげる。高度な洗練という点においては、「2046」は大変なものである。しかしまた、なんという巧みさ。一コマ一コマが絵画であり、3部構成の(アベル・ガンスを思い起こすがいい)驚くべき立体感を持ったその物質の中に入っていくことは、贅沢な経験だ。wkwは変わらない物語を語るということを革新した。審査の模様から、「2046」が勝利を逃すような様子はうまく想像できない